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生活に根付く意義のようなもの

お店を始めてから、気がついてみたら、仕事と生活の境界線がまったく無くなってしまった。

店で扱っているものが家の日常品だし、売っているものが使っているものだし、店で展示会をさせてもらったものに常に囲まれて生活をしている感じ。つまり、仕事と生活がべったりと地続いてしまっている状態。店を始める以前、果たして自分はこういう生活を望んでいたのかどうか。しかも普段から子供同士も含めて、よく遊んだりご飯を食べたりする友人たちというのも、仕事で付き合っている人たちだったりするから、もう地続きフロンティアにもほどがあるというもので。

ひとから見れば、そもそも自分は買い物が好きな人間だったらしい。それは今の奥さんと出会ってから初めて気づかされたことなのだけど。これは店のインスタグラムでも何度か書いたけれど、元々自分は今やっている雑貨屋を出すつもりなんてどこにもなくて、できれば自分がかろうじて食えるくらいの、小さくてニッチな飲食店をやるつもりだった。でも彼女が僕の部屋、つまりその当時から自分の好きなモノで溢れかえったあの奇妙でジャンクな物悲しい部屋に来たとき、「あなたは雑貨屋をした方がいいと思う。こんなに自分の好きなモノを買うひとだからこそ、きっとモノを売ることができるはずだから」とあっさり言い放った。

そんな理屈初めて聞いたよなぁと自分はひとり首を捻ったが、元々彼女は曲がりなりにも某大手店における雑貨部門のマネージャーをやっていたひとだし、それでなくともそこには妙に不思議な説得力があった。少なくとも自分のなかで、何かがストンと腑に落ちる感覚があった。

と言っても、今思えばたぶんあれは彼女自身が僕に向けた意図的な誘い水だったのだろうと睨んでいる。彼女はそのマネージャー職を辞めて足つぼマッサージ店を開いてかれこれ10年以上になると思うけど、つまりきっと彼女も再び雑貨をやりたかったのであり、その世界でやり残した何かがあったのだ。だからこそ当時(いや今もって)野良犬でしかないような自分を誘ったのだろう。だとすれば、なんと恐れ知らずのヤリ手なマネージャーであろうか。でもそれが無ければこの「vertigo」という店は世に無いのだし、結局はそういう流れだったのだろう。なんにしても川は逆に流れることはないし、もう時を戻すことはできない。

とにかく気がつけばそうやって仕事と生活が地続きになってしまったわけだが、何よりそういう生活が自分に向いていることだけは確かなようだ。そもそもうちの店で売っているものはすべて自分で使っているものだし、だからこそ説得力の重みが増すはずだし、どうしてもそれを語る言葉だって熱くなって実感が強くなる。モノを売ろうとするときに、どこかしらSNSに頼らざる得ない今、その素材とかスペック的なことを前面に出すのがどこぞの流れな気もしているが、正直自分ははっきりとそこには興味が持てない。その辺はそれこそググればどこでも出てくる情報だし、誰にだって簡単に獲得できる。

でも生活に根差した情報というのは「ここ」、つまり自分のなかにしかない。自分の身体を使って実践しては生活してみて、それを自分の言葉に落とし込んで伝えることでしか、きっとそれはあり得ない。だからこそ、自分という人間がこんな店をやる価値がある。と堅く信じているのですが。信じてはいるのですが、それが果たしてどこかの誰かに必要かどうかは、今もってまったく自信ありませんが。

というわけで写真は先日の『日曜の朝』という小さなイベントで扱わせてもらった天草の陶芸家である木 ユウコさん作のカーテン「海藻の森」。あまりにもかわいくて素晴らしいので、晴れてウチの窓に迎えさせていただきました。

起き抜けに、雨音を聴きながらまだ寝そべったまんまでぼんやりこれを眺めていると、心がしんとなって、なんだか自分が深海の森に居るような気分になります。ということは、これはひとつのカーテンであると同時に、とどのつまりひとつの絵画でもあるわけで、そんなカーテンそうそうはないのではなかろうか・・・ということだって、日々の生活で実践してみて、改めて気づいたことだったりするのですが。

中村 慎vertigo店主

熊本の白川公園の裏っかわ、満月ビルの3Fで『vertigo(ヴァーティゴ)』という雑貨店をしています。

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