日々、家族のご飯を作る自分だが、たまにはひとり家で夕飯を食べることもある。
子どもたちや妻は近所の義母のうちで夕飯を食べ、自分は静かなる巣でひとりしっぽり食べ呑み過ごす夜。実はこんな雑多にも見える夜の一瞬がいちばんしとやかで得難い時間だったりするからどうも不思議だ。
先日の日曜もそうだった。
俺は毎度のように度重なる展示会で疲れていたが、今日の夜はひとりと聞いてひとまず家に帰り、おもむろに近所のコンビニエンスストアに50数歩、歩き出向く。
ちなみに俺はこのコンビニが何故か好きだ。品揃えがいいとはあまり思わないが(できたら春雨かマロニーを置いてほしい)、バイトたちの『エターナルズ』めいたファミリー感がとてもよろしい。・・・いや、とはいえあの映画をまだ観ていない自分だが。
最近はアジアンな若い男性がバイトに入ることも増えたが、特にそのなかにひとり、とても優秀な接客をする男性がいる。『マスター・オブ・ゼロ』のアジス・アンサリにも少し似たような彼のジェントルかつウェルメイドな接客がいつも気になってしまい、名前を覚えようと名札をいつも見ようとするが、どうにも覚えられない。いつか祖国のことについて聞いてみるのは失礼なのだろうか。そしてそんな俺はといえば、実はその『マスター・オブ・ゼロ』でさえまだ一瞬も視たことがなかったりする人間なのだが。
・・・いや、そんなことは、どうでもいい。
とにかく、今日のひとりの夕餉を飾らんと、豆腐、発泡酒、だとかを買う。
こんな意見は聞いたことがないから敢えて書くけども、発泡酒というやつは缶のまま飲んだ方が断然うまい。少なくとも俺はずいぶん前からそう思っている。なにかに注いだ途端、気のようなものがすっかり抜けてしまい、腑抜けな飲み物になってしまう。結局たぶん、彼らはそれくらいのヤツなんだと思う。
やっぱりそんなどうでもいいことをひとり思いながら飲みつつ、豆腐を、蒸す。
最近、子どもの弁当を作っていて、ひとり料理蒸し、というのを覚えたのだった。
深い鍋に少しばかり水を張って、鍋の円周よりひとまわり小さい器かアルミのボウルに食材を入れて、鍋の蓋をして蒸す。これがひとり分の食べ物を拵える際に簡単でめっぽうちょうどいいのに気がついた。
こないだも、豚肉と春菊をにんにく醤油とナンプラーと黒砂糖、さらにパクチーとバジルで下味をつけたものを蒸して、ご飯に汁ごとのっける料理を子どもの弁当に入れたばかり(美味しかったと一応言っていた)。とにかく、弁当はひとり分を作るのが意外と面倒なので、これは良いことを思いついたと自画自賛していたところだった。
だから、今日はせめて自分ひとりのために、豆腐を蒸す。ただただ豆腐を蒸して、ごま油と塩、さらに冷蔵庫にあったパクチーをパラリと散らすのみの、ちょっと切ない料理ともいえない何か。さらに冷蔵庫にあった納豆と先日作っておいたひじきの梅干し煮を混ぜ合わせて、密やかな膳を張る。手元には小笠原の島辣油をセッティング。いつでも自然で鮮烈な辛味を得られる、うちの店のロングセラー商品だ。
いわばサウナに入ったかのような豆腐はじっとり内側から汗をかき、どことなく艶っぽい。口にすると、ふるるっと揺れ動き、ひとり身の口をうっすらと喜ばせてくれる。
なんでもいいから、音楽はジャズをかけようとする。たまたま手元にあったハンク・モブレーのコンパクトディスク。「Peckin’ Time」。ひとり酒の目の前で行われる、モブレーとリー・モーガンのタイトル通りの“つつきあい”。なんだか今日の俺と豆腐の関係のようじゃないか。小難しい理屈があるようなないような、ひとりの夜にちょうど良い音楽だなと、なんとなく思う。
めんどくさいから、豆腐を蒸したそのお湯を使って、麦焼酎のお湯割りを作って呑む。かたむけるは天草の金澤宏紀氏によるブロンズカップ。もうところどころ欠けてしまっているが、そこがまた男やもめっぽくて悪くない。ああ、独り身とはなんてこうも自堕落なのであろうか。
それにしてもこんなとき、世の漢たちは独りなにを考え、独りなにを想うというのか。
うっすらと汗をかいた、淡くも柔らかい人肌のような蒸し豆腐に、かつての、とにかくかつての、汗ばんだ女性の肌を思い浮かべようともする。かようにひとり酒とはエロ物悲しい。何気ない蒸し豆腐が、味気ないひじき納豆が、途端にいつかの艶々しい記憶を呼び起こす。線を超えてしまった過ち。線を超えなかった悔い。それらを同時に秤にかけた時、残り示すものに果たして意味などあるのだろうか。とにかくそんな記憶たちをぐいっと飲みつつかき消そうと・・・するのだが、ふと、どこからか視線を感じる。・・・と、それは子どものリラックマのぬいぐるみだったりする。下の子がリラ、と妙な愛称で呼ぶ、あいつだ。ふぅ。まったく。
そんなわけで、俺はひとり、どこかから妙な視線を浴びつつ、ため息ともつかない吐息を溢しながら、豆腐をほうばる。
・・・いや、そんなすべてのことはどうでもいい。ああ、どこかから子どもたちの声が聞こえてくるような気がする。