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器と男

器を自分で買い始めたのはいつ頃だったろうか。

いつかここで書いたカルボナーラばかり作っていた大学生の頃は、まだそんなに自分で器を買っていなかった気がする。

そういえば、うちの店でも男性がひとりで器を買いに来られる姿も増えた。個人的にその風景がとても好きだったりする。たった独りで器を選ぶ男性の姿が。

そんなことを書いていたら、ふと、いつかの風景を思い出した。

・・・

あれはいつだったろう。もうお店を始めてからずいぶん経った頃だったと思う。とある男性が独りでお店に来たことがある。

初めて来られた男性で、歳の頃なら40前半。こざっぱりした服を着ていて、その着こなしがなかなか素敵な人だった。僕自身、中年の男性の着こなしでそう思うことはあまりないのだけど。

ただ僕がなぜその人をよく覚えているかといえば、その人の見かけがどことなくオスカー・アイザックに似ていたからだった。目鼻立ちのはっきりした濃い顔で、白髪混じりの天然パーマ、髭は生えていなかったが、それも似合う感じ。自分がもしも女性だったとしたら、もしかしたらこういう雰囲気の人を好きになるのだろうか。そう、僕はオスカー・アイザックという俳優が大好きなのだ。

彼はひとり店に入ってきて、器をゆっくり手にとって眺めていた。そのとき、店内は彼ひとりだけ。ただそれだけなのだが、それはなかなか画になる風景だった。午後のうっすらと柔らかな陽光が端正な姿の男にたっぷりと注がれていて、器を持つ彼の指がやんわり光っていた。指輪ははめていなかったと記憶する。僕はその風景をカウンターでひとり眺めながら、頭の中でオスカー・アイザックが出た作品で自分がこれまでに観たものをひとつずつ挙げていた。・・・ドライヴ、エクス・マキナ、アメリカン・ドリーマー、スター・ウォーズ・フォースの覚醒、オペレーション・フィナーレ、インサイド・ルーウィン・デイヴィ・・・

「・・・ご店主は」

インサイド・ルーウィン・デイヴィスあたりまで行ったところで、彼が何か言っていることに気づく。店内には僕らだけなのだから、彼は僕に話しているのだろう。

「ご店主は、器が、お好きなんですか」。

珍しいくらいに、ゆっくりとした口調だった。どことなく、僕にではなくて、自分自身に話しかけているような、不思議な感覚を引き起こす口調。ご店主、という風に呼ばれたのも初めてだし、お客様からそんな基本的な問いを受けることも初めてだったので、少したじろぎながら答えを返す。

ええ、まぁ、そうですね。自分で料理をするようになってから、盛る器に興味が出てきたのかもしれません。

「・・・なるほど。では、誰かに、器を贈ったことは、おありですか」。

少し間が、あく。突然そう聞かれて、器を贈った相手がさっと思い浮かばなかったからだ。でも何人かに贈ったことはあるはず。その多くは女性に。

ええ。まぁ、ありますね。

「ふむ。・・・で、ご店主は、その器たちが、たったいま、どうしているか、気にはなりませんか」。

たったいま、どうしているか。・・・ふむ。また少し、いや、今度はだいぶ、間があく。どういう意図の質問かが読み取れないからだ。でも彼がこちらをおちょくっていたりだとか、ふざけて話しているのではないことは、その口調から分かる。彼は僕に、あるいは自分に、何かを問おうとしているのだろう。

二人の沈黙の間に、レコードが流れている。マイケル・フランクスの「THE ART OF TEA」。偶然ながら、なんだかあまりにこの場にふさわしすぎるレコードだな、とふと想う。シルキーなヴォイス、滑らかなサウンド、美しく印象的なそのジャケット。この時の沈黙の記憶によって、現在となってはこのレコードをかけるたんびに彼を思い出してしまうくらいだ。とにかく、問いを持て余しながら、聴くともなくその音楽と戯れていると、彼がまたゆっくりとした口調でいう。

「実は、私は、とある人へ、器を贈ろう、と思っているのです。・・・ただ、器とは、基本的に使うもの、ですよね。いわば、それは、遺るもの、ですよね」。

いったい彼が何を言おうとしているのか、まだよく理解ができず、ゆっくりと頷くことくらいしか、こちらにはできない。

「・・・ひらたく言いましょう。ご店主は、過去に恋愛をしていた人や親しかった人から、器を貰ったことは、おありですか。そして、その器は、たった今、どうしていますか」。

なるほど。そういうことか。僕は頭の中で、家にある食器棚を検索する。果たして、いつかの人からもらった器がその中にあるだろうか。でもうまく思い出せない。

うーん。どうだろう。突然聞かれても、わかりませんね。そんな器があるかもしれないし、ないかもしれない。いずれにしても、そんなこと、考えたこともなかったけれど。

彼は少しだけ偽悪的な微笑みを浮かべながら、ひとり、うんうんと深く頷いている。まるで目の前にいる僕なんか関係なく、たった独りでカメラを前に芝居をしている人間のように。だんだん彼が本当のオスカー・アイザックのように思えてきた。

「・・・うんうん。よおく、わかります。私だって、そんなことを言う人間は、変だとも、思う。でも、改めて考えたら、妙なものだと、思いませんか? いつかの誰かから、もしかしたら過去にお互い愛し合った誰かから、いつしか貰った器で、ご飯を盛ったり、食べたり、もしくはそうでなくたって、それがただここに在る、ということが。なかには、それが嫌で、そんな器を、捨ててしまう人だって、いるのかもしれない。そして、それが正しい答え、なのかもしれません。・・・でも、ですね。ただ、結局のところ、それだって・・・」

器に、罪は、ない。・・・ですよね。

「・・・そう。まったく、ご店主の言う通り。器に、罪は、ありません。ひとびとの思い思いのそのときの理由から、あげたり貰ったりしたものなのに、結局それをどこかへ捨ててしまうなんて、なんだかおかしい気がしないではない。ただ、ではどうしたらいいのかというと、それは私にもわかりません」。

ゆっくりだった彼の口調が少し早くなっている。だからなのか、僕もつられて、すぐに彼に聞き返してしまう。・・・では過去の人から貰った器をあなたはどうしているのですか? それはたったいま、どこにあるのですか? ・・・いや、というか、それは僕自身に聞いたのかもしれない。「あの人から貰った器は、たったいま、どこにあるのだろう?」と。

彼は僕の目をじぃっと見つめている。今度はそこに偽悪的な微笑みも何もない。二重瞼の大きなその目は少しばかり空虚で、なんだかこちらが見透かされているような気になってくる。僕は聞いてはいけないことを聞いてしまったのだろうか。

・・・ふぅぅ。

彼は、ひとつ、大きなため息のようなものをつき、ゆっくりこちらを見る。そして、今度はとても柔らかくて優しい、こちらを包み込むような微笑みを投げかけながら、僕にいったのだった。

「答えなんてない、ということが、きっと、あるんでしょう。答えなんてない、という、答えそのものを、我々は、うまく呑み込んでいかなければ。・・・ご店主、そうは、思いませんか?」。

今度は僕が黙る番だった。気がつけばレコードは鳴り止んでいて、チリチリと微かなノイズを立てながらその終わりを告げていた。僕は店の外にゆっくりと流れる川を眺めながら、宙に舞ったままの答えのようなものとともに、いつまでもそこに漂っていた。

・・・そのとき以来、彼はまだお店に顔を見せてはいない。

photo.Eto.kikaku

中村 慎vertigo店主

熊本の白川公園の裏っかわ、満月ビルの3Fで『vertigo(ヴァーティゴ)』という雑貨店をしています。

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