小学2年生になる我が子が日記を書くのに苦しんでいる。
学校の宿題で毎日書かねばならないのだが、どうもいつも気が乗らないようで、ひどい時にはかれこれ1時間近くかかってしまう時もあるのではなかろうか。
一応、こちらは文章を書く身として、なんとかしてあげたいといろんなアドバイスをしてはみるのだけど、如何せんうまくいかない。一体どうしたら良いのだろうか。
そもそも極端な話、文章を書くことというのは、本人が好きか嫌いか、あるいは向き不向き、ということもあるのだろうから、そんなに無理して毎日書かなくても良いんじゃないかなぁ・・・と僕なんかはつい思ってしまうんだけど、でもそんなこと言ったら勉強が終わってしまうので、それは言わないことにしている。
でもそういう意味ではあの夏休みの読書感想文というやつもそうだ。なぜあれを学校が無理にさせるのかも、本当いうと僕はちっともよく分からない。何かを読んで、書きたい人だけが書けば良いのに。そんなことを無理にさせるから、人はかえって文章を書くのが嫌になってしまうのではないか。
もちろん僕だって理屈は分かる。文章を書くことというのは、取りも直さず自分を一度客観視することなのだろうし、例えば日記だとしたら、そうやって自らの一日を振り返ってみて、今日あったことやその想いをわかりやすく誰かに伝える。というのは、まぁ大事なことではあるのだろう。うん、まぁわかりますよ。でもそれを教えるとなると話は別になるし、果たして毎日日記を書くことでそれが身につくものだろうかと。
もともと自分は書くことが好きな人間だったし、物心ついた時から文章を書くことに対しては一切苦労を感じたことがなかったから、気が進まない人にそれを教えたり無理にやらせる、ということがとても難しいのです。
・・・恋文。もういっそのこと、子どもたちにはラブレターを書いてもらうというのはどうだろう。無理に日記や読書感想文を書かせるというのではなく、彼らが好きな子だとか好きな動物や好きなキャラクターに対してでもなんでも良いから、その想いを自由に書いてもらうというのは。誰もがラブレターを書くときになって、初めて心から自分が伝えたいことを本気であれこれ考えるのだろうし、これはいい案だと思うのだけど。
そもそも文章って相性もある気がするんですよね。ほら、初対面の人と会った時に「なんかこの人とは合わなそうだな」とか「めちゃくちゃいい感じだな」とかあったりするじゃないですか。文章もおんなじで、気が合わなそうだとまったくその人の文章を読み進めることができないこともある。少なくとも僕はそうだ。だからこそ、「最初の印象はダメだったけど、後々よおく知ってみたら深い友達になった」みたいなことも、文章においてだってよくある。だから、どうせだったら、ただ書くということを教えるのではなくて、書くこと自体の意味や意義から伝えることが重要なのではと。
いや。だって、これからの時代、人だからこそ書けるもの以外は、きっとAIがすべてできてしまうはずで。いくつかキーワードを入れたら、勝手に文章化してくれるようなシステムだとか。特に人の想いに関係ない単なる情報のみであれば、それはもういよいよできるはずであり。
そういえば、映画『her/世界でひとつの彼女』では未来の世界において、主人公を演じたホアキン・フェニックスは他人のラブレターを代筆する仕事をしていたことを思い出す。たぶんあれは、決してAIには書けない、人間だからこそ表現できる特別な想いのようなものが仕事になっていたのだろう(そして結局、AIが想いを持ってしまうのだけど)。
僕は常々思うのだけど、文章というのは、その人が持つ匂いとか癖とか、そういうものとおんなじで、どうやっても消せない何かが滲み出てしまう行為だと思う。校正なんかで、それを無味無臭に消毒されてしまうことが仕事であったけれども、それって変だよなぁと常々想ってきた。だって、無味無臭であるならば、それこそAIが書いた方がいいんだから。これからは逆に人間だからこそ書くことができる文章こそが求められ、生き残っていくのではなかろうか。
「文章を書けるようになるにはどうしたらいいですか?」
いつだったか、そんな問いをなぜかこの僕にしてきた人がいた。こんなにもナンプラー臭い、もしくはくさやじみた、あまりにクセのある文章を書く自分に、なんでこの人はそんなことを聞くのだろうかと想ったのだけど、その時にこう答えたことを覚えている。
「とにかく自分の好きな書き手を見つけること。好きな文章を見つけること。その人の書く文章をできるだけたくさんしかも何度も読んでいたら、いつのまにか書けるようになるはずです」
文章を書くことだってひとつの表現の部類だと捉えたら、それはなんであれ模倣から始まるはずであり、だったらひとまず自らの内に自分の好きな文章をできるだけ入れて知ることが何より重要なのでは、と考える。それが近道だとは決して思わないけれども、本質的にはそう間違った話ではないのではないかと。確か、音楽家の細野晴臣さんも同じような意味のことをどこかで書かれていたような気がする。
・・・とはいえ、そんな小難しい理屈をたったいま小学二年生に話してもしょうがないだろうし。ああ、文章ってなかなか難しいものです。