季節外れの話であることは重々承知である。
私だって別に年の瀬に果実の話をしたいのではない。
『すいか』は2003年に放送された連続ドラマのタイトルだ。
取るに足らない 些細な
と周りの誰かがそんな風に思っているようなことを金魚すくいのようにひとつずつ、こぼれ落ちないようにすくったドラマ、それが『すいか』だった。今から18年前。なぜ高校生の自分が見る予定もなかったそんなドラマをふいに見つけたのか、そして我が家に一台しかなかったテレビの土曜21時枠(基本テレビ権は父のものだった)を獲得できたのかは全く覚えていないのだけれど、とにかく夢中になって10話、2ヶ月ちょっとを駆け抜けた。私の熱とは反して、視聴率はふるわなかったそうで当時同級生とそのドラマの話をしたことは一切なかったのだけれど、大人になり、定期的にそのドラマを好きだと言うひとと出会うようになった。
昨日お茶をしていた友人もそんなひとりだった。
パンプキンパンク。独立記念日の紅白饅頭。おのろけ豆。掃除機の音、梅干しの種。
大多数の人からはなんのことだがさっぱり分からないキーワードで今までの3倍ほど饒舌になる。そして、こんな人と出会えた自分のことを何だかやっぱり大丈夫そうだな、と思えたりする。
取るに足らない 些細なこと
と思おうとしていたのは自分自身だった、ということに『すいか』を観る度に気がつく。
自分の目で世界をみる。信じると決めること。
真っ暗な夜に怖いなと思いながらも、この先に起こる今日とは違う明日も歩き続けること。
友人と解散し、久しぶりにシナリオブック(文庫がでている)を読み返して、夜な夜な気持ちを揺さぶられながら幸せな眠りについた。
昔、最中の皮で繰り返し金魚をすくおうと腕を伸ばした祭りの夜が浮かぶ。
すぐにふわふわになる最中の網から楽々とすり抜ける金魚たちに何度も挑むように、このドラマは私たちのまだ知らない可能性にしつこくしつこく挑んだ記録なのかもしれない。
今年も出口が見えてきた。
まだ知らない新しい年もいまから愉しみだ。