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家事とねじまき

30代の二人の息子たちにそれぞれ子どもが産まれた。ともに彼らは奥さんを手伝って、子育てや家事を率先してやっている・・・。

先日、そんな話を何気なしに、とある女性のお客様と話し始める。なぜか自分はこの辺のテーマをいろいろなお客様と店で立ち話す機会が多い。僕自身、気になっているテーマなのかもしれない。

「そういえばこないだ、ネットで昭和的40代男性と令和的40代男性の記事を読みました。40代って世代的にちょうど間で、家事も子育ても何にもしない昭和的な男性と、積極的に手伝う令和的な男性が混じっているのだと。であれば、当たり前に30代はその割合が変わるんでしょうね。世代的にも共働きが当たり前だし、そういう意味では令和的な男性の割合が多いはずですし」

そんな当たり前のようなことを僕が話す。

「そうですよね。私たちの頃はそんな考えもまるっきり無かった気がするから、びっくりするのですけど」

そういう彼女は50代くらいだろうか。彼女の同世代であろう昭和的夫はやはり家のことは一切何もしなかったらしい。

「でもそう考えたら、嬉しいですよね。息子さんたちはそうじゃないんだから」

僕は何気なしにそんなことを言ってしまう。でも彼女は少しだけ表情を暗くしてから、こんなことを話す。

「・・・ええ。でもなんだか・・・。それより、悔しい気持ちが先に立ってしまうんですよね。家のことを何もしてくれなかったその時の夫について思い出すと、今でもつい腹が立ってしまう。その時の悔しさがまだここにしっかり残っている感じ。だから、もちろん子どものことを思っても、夫婦で子育てや家事をした方がいいのだとは思うのですけど、どちらかというと、奥さんの方にそんな悔しい想いがずっと残るかもしれない、と言うことを男性は考えた方がいいのかもしれませんね」

少し意訳もあるかもしれないが、そんな風なことを彼女は言った。うーん。悔しい、か・・・。

僕はその気持ちに対してすぐにはアクセスできなかったのだけど、そういえば、もう亡くなってしまった自分の母を思い出すと、くっきりとその姿が重なった。

僕の母も後年、家族みんなでわいわい飲んでいたら、結局最後にはずっと家のことをひとりでやってきたことについての遺恨を渾々と父に説いたものだった。いったい何度そんな姿を見たことだろうか。たまにお酒も入って、熱くなってしまい泣いていたくらいだ。僕が現在、すっかり家のことや子育てをやるようになったのも、そんな姿を見たからなのだろうか。それは自分でもよくわからない。そしてひとり残された父は、今ではすべて自分のことは自分でやるようになったのだけど。

それにしても。僕が家事や子育てを基本すべてやる、と言うと、びっくりされたりすることがいまだにあるが、正直に言うと、こちらの方が驚いてしまう。

特に共働きの夫婦で、いまだに奥さんだけがそれらをやっていると言う話を聞くと、ただ単純にこちらはその想像ができなかったりする。いったい、日々どうやって家のことを回しているのだろうと。今二人でやっているあらゆることを、たったひとりでやっている姿が全くもって想像できないのです。

朝起きてコーヒーを淹れる。ご飯を炊く。前の日に使った器をしまう。洗濯機を回す。朝ごはんを作る。子どもを起こす。子どもの着替えを出す。子どもの水筒にお茶を入れる、お茶が無かったら慌てて淹れる。お弁当が必要だったらちゃっちゃと作る。子どもが起きないからまた起こす。子どもが今日の学校の準備が間違っていないかなんとなくチェックする。ハンカチとポケットティッシュを用意する。ああマスクも忘れないように用意する。子どもが起きてもぼやぼやしてなかなかご飯を食べないから急かす。急かしても食べないからまた急かす。着替えろと言っても二人でふざけあってなかなか着替えないから、最後はもうこちらが着替えさせる。顔洗いと歯磨きを急かす。ああ、帽子がないから探す。この辺で洗濯機が鳴るから、時間があったらさっさと干してしまう。ごみを出す。ああ、忘れないように子どもの連絡帳の記入をしなきゃ。ようやっと子どもたちが玄関に来る。名札は付いているかチェックする。一緒に靴を履いて、ようやく、“いってきます”。

・・・・朝だけでこれである。これがほぼほぼ、毎日である。こんなことを毎日たった一人でやれると言うのだろうか。もちろんシングルマザー&ファーザーの方々はそうなのだろうけど、でも相手がいながらただ独りでやっていくのはまた話が違う気がする。まぁそういう僕だって朝はこの大半をひとりでやってはいるのだけれど(なんせ僕の方が起きるのが必ず先だから)、完全にひとりだったら、気が狂ってしまうかもしれないなと勝手なことを思ったり。

まぁでも別に、だからと言って僕は他の人の家のことは基本は知らないし、口を出すべきでもないし、どうでもいいと思っている。人にはそれぞれいろいろな事情があるのだろうし。

ただ僕自身はこういう一連のことをまったく苦だとは思っていない。それは言ってみれば、とある作家が書くところの「ねじまき」のようなものだと考えている。日々のねじまき、のようなもの。自分自身で毎日毎日コリコリコリコリ巻かなければならない、ねじ。

そして僕はそんなねじまきの最中に、意識の裏側でいろんなことを想っている。いや、想っている、のではないな。いろんな想いが、そこにある、と言った方が正しい。例えば日々のインスタグラムやこんな場所で綴る文章のこと。毎日の展示会のこと。この先の展示会のこと。今日しなければならないこと。たった今欲しいレコードのこと。一瞬浮かんでは消える昔愛した人たちのこと。そしてたった愛している目の前にいる人たちへの想い。そんなあれやこれや。

ほっといてもやらなければならないねじまきの世界と、そんな自分の内側にある世界がともに並行して進んでいっているのを、これまたひとつ奥にある深層心理の世界にいる自分がじぃっと俯瞰して診ているような、そんな静かなる風景。

・・・うまく表現できてないかな。でもまぁそんな重層的な自分を感じながら、日々は回っているのだと言うこと。家事や子育てというねじを巻く作業はそんな日々の生活の中で、自分にとってはとても大切な一面でもあるのだと言うこと。

というか、こんな自分に関する文章は、いったいどこの誰の何にも参考にはならないだろうな・・・と書いたたった今が気がいたのですが、まぁとにかく。ひとりの女性の一生に妙な悔しさを渾々と残さないためにも、世の男性たちはできるだけ家のことはやったほうがいいような気がするのだけど、いかがでしょうか。たまたま見つけてしまった、もう8年近くも前になる、子どもが生まれたばかりの若き自分の写真を眺めながら、そんなこんなを想う年末なのであります。

中村 慎vertigo店主

熊本の白川公園の裏っかわ、満月ビルの3Fで『vertigo(ヴァーティゴ)』という雑貨店をしています。

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