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エロスと中年

“最近さぁ、近所のコンビニのアルバイトに若くて可愛い女の子がふたり入ったんだよね。ひとりじゃなくてふたり、つうのがまたポイントでさ。マスクをしてても明らかに可愛い子っているじゃない? まさにふたりともそんな感じなんだよ。いやー、マジでヤバいよね。

・・・うん、まぁ。そう、なんだけどさ。自分でも驚くんだけど、気がついてみたらそれはそれ。だからなに? という感じなのよね。もう40も後半になってくると、そんなの自分にはなんだかまったく関係ない話であってさ。なんかもうすべての時間軸がズレてしまった感覚つうか。これこそが「ザ・中年」というやつなのかもねぇ。”

そんなあまりにくっだらない話をついこないだ、同じくらいの年齢の友人と飲みながら話していたのだが、そのことについては二人とも恐ろしいくらいに完全全面ガッテン同意であった。そりゃあ確かに彼女たちは若くてマスク越しでも可愛い。可愛いけれど、今の自分たちの人生には悲しいかな関係がない。カスる可能性もまぁないし、カスってもらってもなんだか困る。こういうのって言ってみれば、中年におけるエロスの喪失、あるいは放棄、とでも呼べばいいのだろうか。

じゃあもしも地球が反対方向に回って、どちらかの彼女とどうにかでもなってしまったら、果たして僕らはどうするというのだろうか。いやもうとはいえ、なんだかそんなことを考えるだけでもしちめんどくさいし、だいたいこちとら裸一貫でそういう勝負ができるかどうかも自信がない微妙セツナなお年頃。気がついてみたら、僕らはいつの間にかそんな年齢になってしまったようだ。

とはいえ自らの内に存在するエロスがすっかり消えてしまったかといえば、そんなことは決してなく、どこかにチロチロと未だくすぶっているからこそ、中年ふたりは飲んでいると、ついそんな話をしてしまう。そのことが情けなくて、また甘酸っぱくて、悲しいかなどこにも行き場がない。このように、中年は中年で大変なのでありますね。

さらに中年ふたりの話の矛先は、そんな行き場を失ったエロスの行き着く果てになる。ここでいうエロスというのを、そのまま何らかの欲望(=デザイア)と言い換えてもいいはずで、であるならば、それは人それぞれあらゆることへ拡散していくはずだ。または拡散していくからこそ、僕らはたった今正気を保てているのだろう。

たまたまここで飲んでいる中年ふたりの欲望の行き着く先は、どちらも穴の空いたレコードである。そう。そうなのだ。考えてみると、自分がレコードに対して抱いている感情ほど、エロスそのものに近いものはないということに今更ながら気づくのだった。大体、日がな一日、レコードの通販サイトをレロレロ眺めているのと、どこかのポルノサイトをエロエロ眺めているのと、どこがどう違うというのだろうか。それらはまったくもって変わらない。

その欲望の行き着く先が、釣りの人もいれば、車の人もいる。神社巡りの人もいれば、ラーメンに向かう人もいる。BTSに向かう人もいれば山登りに向かう人もいる。そう考えると、欲望の花火が散る様は、どれも変わらなく美しい気がしないでもない。

きっといちばん幸せなのは、その欲望の方向が夫婦関係だとかパートナーそのものに向かっていく人だろう。こういう人は確かにいる。いや、どこかにいるらしい。一生をかけながら互いの身体の隅々まで触れ合っては愛撫し続け、あらゆるプレイを試しては共に快感を得ながら欲望を昇華していく美しいふたり。まったくもって素晴らしい。ひとりの人間として探求しがいがある一生のテーマではある。・・・まぁ正直、僕はあまり自信がないですが。

いやいや、というか、もちろんそこで無理にセクシャルな関係なんてなくてもよいはずで、一緒に過ごす隣の人に対して興味という欲望を持ちながら、一生をかけて大切な関係を育むことができたら、まったくそれはそれで素晴らしい偉業だろう。歳を経たとある夫婦が、川沿いをふたりで仲良く手を繋いでウォーキングする姿を遠くに眺めながら、ひとりの中年はそんなことを想ったりする。

その欲望が子どもに行ってしまう人もいるだろう。でもそれはなんだかちとキツい。子どもが小さい頃はしょうがないけれど、彼らは彼らで道がある。彼らの道と、そんな親の欲望とは、本来あまり関係がないはずだ。それだけは勘違いしてはいけないと、常日頃から自分に言い聞かせて過ごしている。

やっぱりそんなどうでもいいことをつらつら想いながら、ひとりの中年は今日もまた穴の空いたレコードにそっと針を落とす。・・・うん。でも決して「あの日にかえりたい」とも不思議に思わないんよだなぁ、またこれが。

中村 慎vertigo店主

熊本の白川公園の裏っかわ、満月ビルの3Fで『vertigo(ヴァーティゴ)』という雑貨店をしています。

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